
旅をしていると知らなかったことや、見えていなかったことを知る機会が増えた。
また、日本を離れたことで客観的に日本社会をとらえることが出来て、考え方が変わってきた。
これまでは仕事と生活に追われ、考える余裕すらなかったからだろう。YouTube、本やネットの情報を見て「知っている」気になり、決めつけて論ずることが多かった。
しかしその【何事も「知っている」と決めつけて論ずる自分】がとても嫌になったことが、私が旅に出た理由の一つなのだ。
幸い今は時間があるので見聞きしたものから持論を深めたり、推論をたてたりしてこれからどう進むかを考えている。
旅に出たから、やっと考え気づき始めたのが「多様性」についてである。
以下は私の持論。とても長くて素人のたわごとなので、興味あれば読む程度で大丈夫です。
批判や共感など、いろんな意見が生まれるかもしれないし、なにも残らないかもしれないが記録として書いてみます。
多様性社会ってなんですか?
メディアや政治家のスローガンで度々目にする「多様性社会」という言葉。
『で、多様性を具体的にどのように受け入れるんですか?』と毎度思う。
ここからは私の持論。
【多様性を受け入れてより良い社会へ。】聞こえはいいし、もちろんそうなって欲しい。しかし、多様性を受け入れることも、受け入れてもらうこともそれ相当の苦労とプロセスがあると思っている。
例えば、外国人を日本に受け入れるとしよう。
これは本当に困難だが不可能ではないと思う。
まず、前提として日本の常識は全て通用しないと知っておかなければならない。(逆もまた然りである。)
他国の常識が非常識という話ではなくて、本当に日本独自の習慣が多いからだ。
そして各宗教や人種に対しての「イメージ」で判断するのは危険である。
外国人と言っても生まれ育った国、宗教、それによって生活様式・慣習、言葉、年齢、性別によって1人1人全く異なる。当たり前のことだが、その当たり前を私たちは忘れている。
《宗教》
一例を挙げるとすると、イスラム教徒とだけ聞くと日本には偏ったイメージがついていると感じる。
実際のところ、イスラム教も国によって少しずつ慣習や厳しさが異なる。
彼らの暮らしを見ていると、とても穏やかで日本でも真似したいような過ごし方をしている国が多い。
男性たちが街で「アッサラーム アレイコム」と挨拶を交わしお茶を飲む光景をよく目にした。
イスラム教ではお茶を客人に振る舞うがモロッコとエジプトではお茶の種類が違ったり、茶器にもその国の個性が出る。
モロッコの人々は客人に優しく綺麗好きである。
中央アジアのカザフスタンやキルギスなどもイスラム教徒が多い。
同じイスラム教でも言語はアラビア語、ロシア語、ベルベル語、トルコ語など国によって話す言語が違う。
それはヒンドゥー教、仏教、キリスト教などほかの宗教でも同じこと。
宗教はとっつきにくいけどやはりきちんと調べたり、教えてもらって知る努力が必要である。
浅い認識でいざ外国人と対峙する時、相手を一個人としてでなく無意識に変な色眼鏡で判断してしまっているかもしれない。
もちろん厳しい戒律や独自の習慣に戸惑い拒否反応が出ることもあるが、その習慣ができた背景を調べてから批判や意見を述べるべきだと思う。知れば受け入れることや拒否するに正当な理由も考えられるかもしれない。
《言語》
「言語力」はコミュニケーションを取る上で重要。
日本に来る外国人は日本で働く・暮らす意思があるのであれば日常会話レベルの日本語を習得して来てもらう必要があるのだ。
旅行者は別として、当然その国の言語を習得するべきだと私は思う。
でないと自分の意見を正しく相手に伝えられない。互いを知るために必要な工程が踏めないのだ。
それは共生のチャンスを自ら失っていることなのだ。
一方で「日本人は英語レベルが低いから話にならないわ。こちらの言い分を通してもらいます。」という外国人がいたとしたら、それは彼らの価値観の押し付けであり彼らが日本の文化を受け入れていない。すなわち多様性を受け入れていない人ということだ。
この場合は、「あなたたちの言い分はわかりました。でもここは日本、日本人の心や伝統を踏み躙るようなことをしないでください。リスペクトを持って接してください。それが受け入れられないならお帰りください。」と言って何ら問題ないと思っている。
(日本の第一言語は【日本語】だから。)
そりゃ日本人も英語が話せたらいいことは多いが、それはそれである。
《価値観の違い》
日本人が『うっ、、』と逃げ出したくなるのは、【相手が意見して来た時】だと私は思っている。
例えば外国人が『この会社の規則はおかしい。』と思った場合、思っただけでなくしっかりと発言する。むしろ言わない方がおかしいだろ!という価値観なのだ。
それに対して日本人は空気を読んだり、規則は規則だからと自分で納得したりすることが当たり前になっているので、言わない方が良いと思っている。
もし部下として働く外国人が『私はこの業務したくない。』と意見した場合、どうするのか。
『ルールだから』や『みんなもやってるのに、あなたがやらないのは不公平』といって丸め込む事は解決にならない。『あーもうやだ、適当に無視しよう』とあしらってしまう人もいるだろう。
なぜ彼、彼女はそう思ったのか?
日本ではなぜそれをする必要があるのか。
解決するにはお互いを知るための時間と努力が必要になるのだ。
価値観の話で一つ、怖いと思っていること。
世界中(先進国以外)の建築物ってかなり作りがアバウト。対して日本の建物は魔法レベルで完璧。
建築中の様子を見ると『え?!こんな作り方してるの?』と仰天するほど雑に作っている。
まず地面の水平すら出さないまま、レンガやワイヤーを組み立ている。建築資材の質も悪いだろう。
できたものは見た目はまま綺麗でも水回りは水漏れ放題、窓やドアは建て付けが悪いなんてことはざらにあるのだ。
むしろそれが普通の国が多いのだ、ほんとうに。
そのような環境で育った人が日本の建築現場で働くとなった場合。
おそらく日本人が指示する内容と彼らの施工内容は食い違うと思う。職人さんが技能実習生に指導するときも、日本人にする時と同じ方法だと絶対伝わらない。本当に基礎から教えないと、とんでもないことになる。
それは彼らが悪いのではなくて、日本の普通を知らないから起こることだ。その前提で建築現場に外国人を雇わなければ、事故などの危険性が高まる。
日本の建築関係者は、異国の工事現場を一度見に行った方がいい。
《受け入れるということ》
他者を受け入れる。これらは外国人に限らず日本人同士でも同じだ。
生まれ育ちや年齢が違えば共通認識も異なるし、さらに一人一人にさまざまな背景があるのだ。だから『受け入れる側』も『受け入れてもらう側』もとても体力と知力が必要なので大変になる。
海外を少し見たくらいじゃ到底わからない不平等や問題など山ほどあるし、私の気づきは一人の人間が認知・思考できる内のほーんの1%程度だと思う。
それをわかったうえで【人は皆違う生き物】【自分の知ってる事は世界のほんの一部だけで、ほとんど何も知らない】ということを念頭においてアンテナをはりながら『知る』ことが多様性社会の一歩だと思う。
しかし、日本にいると見える世界が狭すぎる。
欧米人のように無意識レベルで自分の意見をはっきり述べたり、相手のことを知ろうとするコミュニケーションのベースがなければ『多様性社会の実現』は難しいだろう。
それは学校教育だけでは限界があるし、個人だけではなかなか拡大しないだろう。
いっそ、天皇陛下あるいは総理大臣なんかが『これから日本は多様性社会を実現するために教育の変更と、日本人の海外旅行を推進します』と言って舵をきってくれたら個々の動き(意識・行動)が自主的に変化するかもな、と思ったりもする。
私は海外を見たり知ることで少しずつ他を受け入れる準備ができてきたけど、海外旅行は誰でも行けるわけじゃない。
VRで海外の暮らしを体験できたり、旅人×留学生との対談やディスカッションの機会を設けたり、本を読んだりして、みんなが日本にいながら何かしら自分の知らない世界を覗けたらいいなと思う。
あなたはどう思う?
追記:すべての権利を享受したい私たち
本当に多様性社会が必要で求める人々がいる一方で、
【「普通の人」が持つ権利を「私」は持っていない。】という満たされない人たちの不満が、現代日本で多様性社会が推進される一因になっているのか?とも感じる。
この言い方は誤解を生むだろう。嫌悪感を抱いた方もいるかもしれない。
ここからの文章は私自身まだ発展途中の考えで、これからも変化するであろう現時点での私の意見である。
私は一般的な権利を無自覚に享受してきたので、あまり日本社会に不満を持つことはなく生きてきた。女であることに不便さも感じず、健康で経済的に困窮したことは今のところなく、人に対して寛容なつもりでいた。
しかし旅する前からネットでいろんな情報を目にすると「日本って遅れてる」「なんで日本では出来ないの?」と思うことは多かった。
同性婚 / 社会福祉の無料化 / バケーション制度 / 男性の育児参加率の低さ / 政治家の裏金問題 / 技能実習生の労働環境 / 上がらない給料…などなど
(例をあげると多様性あんま関係ないし、関心が浅いよね?と怒られそうだ。)
今ある権利やシステムだけじゃ満足できない感覚。
いまこそ必要だと感じている環境は、どれほど具体的に考えられているのか。アメリカっぽいとかヨーロッパっぽいとかふわっと抽象的になっていないか?
「ないものねだり」や「わがまま」ではなく、「みんなと同じ普通の権利」とは何なのか。
みんなが損しない社会?損得の基準は?
平和で安心して暮らせる社会?それって大きな枠組みは政治で作れるけれど、個々の精神的な安らぎや幸せは自分から積極的に人間関係を築いて獲得しようとする努力も必要じゃないの?
「多様性」とはあいまいで、際限なくて、だけどなんとなく希望を持たせる言葉だなと思う。
なんでも「与えてもらう」という感覚で意見・思考することは、多様性社会を遠ざけることになるだろう。
ありのままの自分を受け入れてもらうためには、自分も他者を受け入れなければならない。
うわべだけ見て「うん、うん、いいね。私はあなたを受け入れてますよ」とポーズをとるのは簡単だが、自分に不都合が生じたときに怒ったり恨んだりしないのか?
そう、うわべだけの優しさでまかり通るほど生易しいものじゃないはずだ。
社会・世間が多様な生き方は受け入れるということは当人同士の責任も生じるし、己の信条や意見をしっかりもっていないと簡単に流されて必要な権利をつかみ損ねてしまうだろう。だって今までのような「一般的な幸せの正解」はないんだから。
また「受け入れない」という現実があることも受け入れるべきだと思う。
全てを受け入れてもらおうなんて傲慢だし、人によってはどんなに努力しても無理なこともある。
そんなときに騒ぎ立てるのは多様性ハラスメントやないか、と。
その線引きは難しいが、そうしても受け入れてくれないところに押しかけて権利を振りかざすのは、自由をはき違えている。
受け皿を変えたり自分で作ったらいいじゃないか。既存のものに無理やりはめ込もうとするから亀裂が入るのである。
他者に求めすぎていることに気づかないと、生きづらい人生から抜け出せなくなる。
その観点でいうとまっとうな多様性社会を目指すのはいいことかもしれない。
ある程度それぞれの問題にフィットする権利が与えられたとして、ハンディがある人もない人も自立したうえで助け合う社会を構築できる。
社会は人間が作るものだから、関わり合い切磋琢磨、ときにすったもんだしながら平和な日本で暮らしていくことは楽しそうだし未来は明るい。